夜になれば 2/4
この日、永倉が山南の布団に入ったのは二日ぶりだった。一昨日は気まぐれでなんとなく、昨日は闇討ちで遅くなったために、山南の部屋には行かなかった。どうやらその間の山南は、まともに眠れていなかったようだった。行灯に照らされた山南の顔はひどく疲れきっていて、切れ長の目の下には隈まで作っている。細かいことを聞かされても永倉には理解できなかったのだが、とりあえず開発の方で厄介な問題が起きてしまったらしい。そのせいで半徹夜が二日も続いてしまったのだと、げんなりとした声で山南が語っていた。まったく多才すぎるのも困りものだと、永倉は傍らに座る山南を見上げて思う。
「……せっかくの綺麗な顔が台無しだよ」
ぽつりと呟くと、山南がずれてもいない眼鏡をくいと押し上げた。山南が動揺した時の癖だった。永倉としては本音をこぼしたに過ぎないのだが、それを山南がどう解釈したかは知る由もない。疑問を疑問のままにしていられないのが山南の性分だ。ここ最近の己の行動についても、恐らくあれやこれやと頭を悩ませているのだろう──そう考えると、永倉は自分の身勝手さにちくりと胸が痛んだ気がした。数秒の沈黙を置いて、山南は少し困ったように笑んだ。
「そんな台詞、三十路目前の男に言うものじゃないと思うんだけどねぇ」
その細められた目に、永倉はきゅっと胸が締め付けられるのを感じた。
山南が行灯の火を吹き消すと、部屋は暗闇に包まれた。布団がそっと捲られ、冷気を連れた山南が隣に入って来る。相当疲労が溜まっていたのか、瞼はすぐに閉じられ、程無くして寝息を立て始めた。寝顔にまで疲労の色を滲ませる山南に居たたまれなくなり、永倉はおのずと平生より身体を寄せる。山南の低体温は今日も健在だった。
山南が先に寝てしまった以上、今夜は大人しく寝るほかない。永倉も眠ろうと目を閉じた。だが眠気は一向に訪れることはなかった。気分はひどく落ち着かない。永倉は小さく溜息をつき、暗い天井を見つめる。未だ胸に残る先の感覚に、山南と出会った時の記憶をじわじわと引きずり出されていくのを感じていた。
山南と顔を合わせたのは五年前、永倉が十代の半ばの頃だった。まだ幼かった沖田と道場の濡れ縁でくつろいでいた、うららかな春の日の昼下がりのことだ。
隊士の確保に奔走していた近藤がその日、いかにもインテリ系を思わせる眼鏡の男を連れてきた。育ちと品の良さが窺える、凛とした立ち姿。顔立ちは整っているが、何処か生真面目で神経質そうにも見え、正直、どちらかというと苦手なタイプかもしれないと当時の永倉には思われた。その男こそが山南だった。
山南とは近藤に引き合わされる形で当たり障りのない挨拶を交わしたが、一言二言話した限りでは、第一印象に反して嫌な感じは全くしなかった。よろしく、と差し出した手を山南が握り返したその直後、初めて先の感覚を味わうことになる。
穏やかな春の陽射しの中、切れ長の目を細めて柔らかく笑んだ山南に、永倉は不覚にも見惚れた。ただ、綺麗だと思ったのだ。その時の山南の表情は今でも脳裏に焼き付いて離れず、記憶と重なる度に胸を締め付けられていた。
山南はあらゆる分野に精通していて、一を聞けば十が返ってくるような博識な男だ。それでいて剣の腕も立つと来れば、近藤が山南を味方につけたがるのは当然のことだった。永倉も文武に秀でた山南を純粋に慕うようになっていた。けれど、ちょうど今と同じ秋の終わり頃には、山南に向けていた憧憬が形を変えていたことを自覚するようになる。
本人は否定するだろうが、山南は表情が顔に出やすい。良く言えば表情豊かで、一緒にいると退屈しなかった。一つまた一つと山南の表情を知るうちに、自分しか知らない表情を引き出したいと思うようになった。でもやはり笑った顔が一番好きで、あの柔らかな笑みが自分だけに向けられればいい、とも思っていた。独占欲まで向けるようになっては、もうその裏側にある恋情を認めざるを得なかった。
そういうわけで永倉は、独占欲に任せて山南の布団に潜り込むことにしたのだった。山南は困惑していたようだったが、寒いからと押し切った。山南が存外押しに弱いということをその時に知った。晩秋の寒さが厳しかったのは事実だが、子供ながらに狡い口実を作ったものだと永倉は思う。
そして今、その狡い口実を利用して五年前と同じことを繰り返している。山南にも何かしらの思う所はあったのだろうが、再び隣で山南の寝顔を見られることになったのは永倉にとって好都合であり、想定外でもあった。
何よりも、それを機に山南と五年前のことを懐古するようになったことに驚いた。布団の中で話している時の山南は、張り詰めた副長の顔から一転、あの頃に戻ったかのような穏やかな顔を見せるのだ。自分とのひと時が山南のわずかな安息の時になっているのだと感じるたびに、永倉は満たされるような思いがしていた。
かつて永倉を衝き動かした独占欲が完全に影を潜めたと言えば嘘になる。けれど今は、独占欲で優越感を満たすより、ただ山南の側にいられればそれで良かった。そんな当たり前の幸せを、この先何度感じられるか分からないということを永倉は理解していたのだ。
穏やかだったあの頃と今とでは、置かれている状況も立場もまるで違う。永倉は今や心戦組の組長として、散々人の命を奪って生きている身だ。そんな生き方を選んだのは、他でもない自分自身。今更人を斬ることに躊躇などありはしなかった。人間の生温かな肉を貫き、斬り裂く感触も、赤黒い血の海に立って見下ろす景色も、あんな汚れ仕事に従事していれば自然と慣れてしまうものだった。
金さえ積まれれば、相手が誰であれ始末する。それが組の至ってシンプルな方針であり、顔も名も知らぬ者たちを殺せと言われるがままに殺す。組に身を置く者達は皆、そうやって日々を繋いでいる。今までも、これからも変わることはないだろう。
すっかり人の道を外れてしまった自分が、いずれ相応の報いを受けたとしても致し方ない。決して己の命を軽んじているわけではないが、その時はその時だと割り切っている。人を斬るようになってから、永倉はそんなことをぼんやりと思うようになった。尤も、易々と殺やられる自分ではないが、とも。いずれにしても、人より死が身近にあることには違いない。
──だから、許されてもいいはずだ。想い慕う者に寄り添っていたいという、なんてことのない望みくらいは。
山南から己と同じ想いを向けられたいとか、己の真意に気づいてほしいなんて考えは抱いてはいない。そんなもの、おこがましいにも程がある。結局は一方的に山南に想いを向けてしまった己の身勝手であると、疾うに分かり切っている。そう、分かり切っているのだと、胸中で自分に言い聞かせて永倉は目を閉じる。そのまま自然と眠りに落ちるのを、ただひたすら待った。
障子越しに柔らかな朝日が差し込み始めた。
若干の息苦しさを覚えながら、永倉は目を覚ました。寝起きで感覚がふんわりとしているが、心なしか身体が温かいような気がする。とりあえず起き上がろうと身じろいだのだが、どこか違和感を覚えた。
「……なに……?」
身体が思うように動かない。何かに締め付けられているような感じだった。そう、何かに。
壁時計の秒針の音を聞くうちに、次第に身体の感覚が戻ってくる。頭上から聞こえる規則的な寝息。目の前に晒された鎖骨。身体を包む微かな熱──状況を理解した時、寝ぼけていた永倉の意識が一気に覚醒した。
「えっ、ちょっと、山南さ──」
自分を抱き枕にしている相手の名を呼びかけて、咄嗟に口を噤んだ。今日一日、山南が非番だったのを思い出したのだ。半徹夜続きだった山南を無理に起こしてしまうのは、永倉には酷に思えた。頭上を見遣ると、幸い山南は未だ泥のように眠り続けている。正直この状況を堪能したいのは山々だったが、朝から出勤の永倉はそうも言っていられない。山南を起こしてしまわぬよう、絡まった腕をそっと掴んで抜け出した。腕は意外にもがっしりとしていて、やはり山南も武人なのだなと感じた。
永倉は自由が利くようになった身体を起こし、再び山南の顔を覗き込んだ。自分という名の抱き枕が安眠に貢献したのか、その寝顔は昨夜見た時とは打って変わって随分と穏やかなものだった。つられるように永倉の頬も緩んだ。
永倉から山南に抱きつくことは数えきれないほどある。けれど、無意識とはいえ山南に抱きしめられたのは初めてのことだった。それだけ自分に気を許しているということなのか。無意識だとは分かっているが、永倉は少しだけ期待したくなった。
自分を抱きしめて寝ていたと山南に告げれば、面白い反応をしてくれるに違いない。山南をからかうネタが一つ増えて、朝から気分が良くなった。いつ話してやろうかと心を踊らせながら、永倉は静かに山南の部屋を出て行った。