夜になれば 3/4
午後三時を回った頃、非番だった山南は今日の仕事を終えた永倉と町へ出た。小柄な永倉と歩幅を合わせ、ゆったりとした足取りで歩いていく。空は高く澄み切っていて、秋の爽やかな風が肌に心地良い。外を出歩くには丁度良い陽気だ。すう、と澄んだ空気を肺に取り込めば、身体の中から浄化されていくような気さえした。
永倉と話しながら歩き続けて十分ほど。案内され辿り着いたのは、こぢんまりとした甘味処だった。
先に座っててと言い残し、永倉は慣れた様子で入り口の暖簾をくぐっていった。するとすぐに店内から親しげに話す声が聞こえてくる。どうやら永倉はこの店の常連らしかった。山南は促された通り、緋毛氈の敷かれた縁台に腰を下ろして永倉を待つ。野点傘の下は陽が当たらず、ひんやりした肌寒さを感じさせた。
暫くして、永倉と店主と思しき初老の男が店から出てきた。お待たせ、と永倉が山南の隣にちょこんと腰掛ける。男は二人分の茶とみたらし団子を載せた盆を、山南と永倉の間にそっと置いた。香ばしい醤油の匂いが漂う。
「いつも頑張ってる山南さんに僕から差し入れ。ここのお団子、僕の一押しなんだよ」
永倉に奢らせてしまうのは気が引けたが、にっこりと微笑まれてしまえばその厚意を無にするのは悪い気がした。永倉からは「ちょっとだけ僕に付き合ってほしい」と頼まれて町へ連れ出されたのだが、多分、半徹夜続きだった自分を気遣ってくれたのだろう。山南は礼を述べて、ありがたく団子を口にした。
「昨日はよく眠れた?」
永倉に問われ、昨夜は布団に入るなり意識を手放したのをぼんやりと思い出す。
「そうだねぇ……久々に朝まで快眠できた気がするよ。そういえば、昨夜は先に寝てしまってすまなかったね」
いつものように語らう暇もなく眠ってしまったことを詫びると、永倉はきょとんとした顔をした後、逆に申し訳なさそうに笑んで言った。
「山南さんが謝ることないのに。あれだけ疲れてたんだから仕方ないよ。それに山南さんの部屋には、僕が勝手に押しかけてるんだし」
おや、と山南は思った。永倉が、彼にしては珍しい後ろめたそうな顔を見せたからである。山南とて、嫌々永倉を受け入れているわけではない。寒いと言う永倉のために同衾(他意はない)しているということになってはいるが、なんやかんやで恩恵を受けてきたのは己の方だと自覚しているのだ。素の自分でいられる時間に、永倉の温かな体温に、ひどく安心している自分がいることは確かだった。
「……私は、ああして君と話している時間は嫌いじゃないよ」
言うと、永倉の鳶色の瞳が一瞬、僅かに揺れたように見えた。
山南は人に私的な感情を伝えることには不慣れだった。それでも、目の前の永倉の表情を見れば伝えておかなければならない気がした。どこか気恥ずかしく遠回しな言い方をしてしまったが、山南の耳に入った自身の声色はいつになく柔らかなものだった。
「ほんと? ……それなら良かった」
永倉は安堵したように顔を綻ばせた。その時ふと、山南はいつか聞きそびれたかねてからの疑問を思い出した。問うならば今が良い頃合いだと判断し、切り出す。
「しかし──私の布団に入っても、君は全然温かくならないだろう? どうして私だったんだい?」
なんとなく山南が尋ねると、永倉は意表を突かれたように目をぱちくりさせた。その反応がまた意外に思えて、山南も首を傾げる。何かまずいことでも聞いてしまったのだろうか、と少し不安を煽られてしまう。永倉は目を伏せて考える素振りを見せたが、やがて顔を上げて山南の方を向いた。
山南を見つめる鳶色の瞳は、いつになく真っ直ぐだった。先程とはどこか違う雰囲気を纏った永倉が、ゆっくりと口を開く。
「人間、いつ死ぬか分からないから、やりたいことはやっとかなきゃ損だってよく言うよね。特に僕達は、任務に出たら確実に生きて帰れる保証なんてない」
永倉の瞳には、恐れも不安も映っていない。永倉が紡ぐのは、重苦しくも純粋な事実でしかなかった。あまりにも淡々とした口ぶりは、その手を幾度も血で染めてしまったが故なのか。山南はただ、永倉の次の言葉を待つ。
「それが理由だよ」
「……うん?」
永倉の言っている意味が飲み込めず、聞き返す。永倉は山南を覗き込むように見上げ、普段のように愛らしく笑んでみせた。
「だからぁ、それが理由。いつどうなるか分からないなら、山南さんが低体温でも何でもいいから、とにかく一緒にいたいって思ったの」
さらりと言うと、永倉は残っていた団子に手を伸ばした。
──永倉が己に向ける視線は他者に向けるそれとは違うものではないか。
山南がそんなことを疑ったのは、ほんの数日前の事だ。その時は己が永倉に特別懐かれているだけだという結論に落ち着いた。
しかしその結論が今、思わぬ形に姿を変えようとしている。
まず永倉が、自らの最期を意識して生きていることに山南は驚いた。永倉は若くして二番隊の組長を務める男。小柄さを活かした機動力で、真っ先に敵地に斬り込んでいくのが彼の役目である。永倉がその手を血で染めた経験は自分よりはるかに多いことを、山南は知っている。隊士に任務を命じるのもまた、副長の務めであるからだ。つまり、それだけ永倉の剣の腕が信用に足るものだということでもある。そうやって死を身近に感じてきたであろう永倉が、いつ訪れるかも分からない終焉を見据えるようになるのは必然と言えるかもしれなかった。
永倉ほどの剣士でも、この先不覚を取る事がないとも限らない。任務に出れば確実に生きて帰れる保証などないと、永倉は淡々と言った。全く以てその通りなのだ。そして、いつ死ぬかも分からない日々を送る中で、永倉は山南の側にいたいと、さらりと言ってのけたのだ。
それがただ懐いている相手に向けて言う言葉だとは、山南には到底思えなかった。懐いていると表現できるほど軽薄なものではない。永倉はそれ以上の感情を己に向けているのだと、この時山南はほとんど確信していた。けれど、その感情の正体まで問うことは憚られた。頭の中で駆け巡る思考を遮るように、永倉がふっと呟く。
「……五年前は、今とは違う理由だったんだけどね」
「それは、どういう」
言いかけた山南の唇に、永倉の人差し指がそっと当てられた。
「今はまだ秘密。話してもいいかなって思える時が来たら、教えてあげるよ」
少女のような悪戯っぽい笑みが、まるで愛おしいものを見るような笑みへと変わる。心臓が一際大きく脈打ったと同時、その表情に山南は既視感を覚えた。そして、すぐにその正体に思い至る。
先の表情が、決して初めて目にするものではないことを山南は確かに知っていた。何しろ、誰よりも近い場所から永倉を見てきたのだ。夜分自室を訪ねてくる永倉は、いつだって隣からその笑みを自分だけに向けていた。あまりに身近に感じすぎて、見慣れたものになってしまっていたのかもしれない。だから今日この時──永倉の真意を知る時まで、意識することがなかったのだろう。
永倉はひょいと立ち上がり、日陰から日向へと足を踏み出した。両手を上げ軽く伸びをしてから、それを身体の後ろで組む。今の永倉の表情は山南からは見えない上、見当もつかなかった。数秒置いて、永倉がこちらを振り向く。動きに合わせて三つ編みが軽やかに揺れた。
「そろそろ帰ろっか」
陽射しの下で、屈託のない笑みを山南に向けながら永倉が言う。瞳と同じ色をした髪が、陽の光に透けて煌めいていた。本当に太陽がよく似合う男だと、山南は眩しさに目を細めながら思った。
帰り着いた屯所の自室内は、傾きかけた西陽を受けて茜色に染められていた。山南は柄にもなく壁にもたれ、ずるずると力なく座り込んだ。考え込むように額に手を当て、永倉の言葉を頭の中で反芻する。
──あれはまるで、告白とも受け取れる言い方だった。さすがに自惚れすぎだろうか、と山南は自身を嘲り笑って目を閉じる。途端に、瞼の裏にあの永倉の愛おしむような眼差しが過よぎり、はっとして思わず目を開けた。
「──永倉くんが、私を」
無意識に、確かめるように呟く。訊いてしまったのは他でもない自分自身であると分かっているのに、山南はどうしようもなく戸惑っていた。山南も、まさかあの問いで告白まがいの回答を引き出すことになろうとは思っていなかった──はずだった。
そもそも、何故自分はそれを問うたのか。
聞いて、何を得ようとしたのか。
これまで永倉にばかり向けていた疑問のベクトルが、山南自身に向けられた。ふと山南は思い出す。斎藤から永倉との関係を疑われた時も、同じように自問したことがあった。山南は斎藤に、永倉が自分の元にしか来ていないことを確かめるかのような問い方をしたのだ。その時の山南は、それが何のためであったかなど考えもしなかった。だが、今ならばなんとなく分かる気がした。そして今日、永倉から真意を訊き出そうとした己の意図も、同じく。
──いつの間に自分は、こんなにも狡い大人になってしまったのか。
山南は多分、永倉が自分に向ける感情の正体に薄っすらと気づいていたのだ。永倉が今も自分の元にしか来ていないと知ってから、ずっと。気づいていながら知らぬふりをしていた。知らぬふりをして永倉にあの問いをぶつけた。永倉が自分の元しか訪れないのは、自分に好意を向けているからであると確信するために。
斎藤への問いから得たのは、永倉が与える安堵感と温もりが自分しか知り得ないものだという優越感に他ならなかった。優越感の裏側にある欲と感情の正体に、山南だって気づいていないわけではない。ただ、変な自尊心がそれを認めようとはせず、目を逸らし続けてしまう。
人間、五年も経てばこうも変わってしまうものだと、山南は深い嘆息を洩らす。壁にもたれながら、部屋が藍色の闇に包まれていくのをただ眺めていた。
***
十二月を迎えた壬生は、底冷えのする寒さが続いていた。足袋越しにも板張りの床の冷たさが沁みて、廊下を歩くことすら億劫になる今日この頃。
甘味処を訪れたあの日から、永倉が山南の部屋を訪れなくなった。寒さは深まる一方であるのに、だ。永倉は本当に寒さが原因で自分の布団に潜り込んできたわけではなかったのだ、と山南は改めて思う。
さすがの永倉もあの一件で気まずさを感じているのかと思いきや、山南が見た限りそうでもないらしかった。屯所の廊下ですれ違えば抱きついてくるし、会話する時も何の違和感もない。永倉の山南に対する態度は至って普通だった。だから山南も普段通りに接した。
日中、忙しなく職務に身を投じている間は意識に上ることはないが、夜になれば考えずにはいられなかった。「自分の側にいたい」という言葉に矛盾する、永倉の行動の意味を。永倉の来訪は毎晩ではなかったにしても、一週間以上も間が空いたことはなかった。恐らく、気まぐれではなく意図的なものだろう。
気まぐれでも気まずさでもないとすれば他に何があるというのか。いくら考えても答えの出ない問いを、山南は幾晩も繰り返した。己の胸中に、得も言えぬ空白感が去来するのを感じながら。
遠征に向かわせていた二番隊と三番隊が帰還した、ある日の宵の口のこと。隊士達がぞろぞろと屯所に戻って来るのを、山南は渡り廊下から遠目に眺めていた。
しかし妙だ、と山南は思った。先頭を歩くはずの斎藤と永倉の姿だけが、どこにも見当たらなかったのだ。幸い、此度の任務で重傷者は出なかったとの途中報告は受けていたが、山南はなにか胸騒ぎのような感覚を覚えた。
どうにも落ち着かず、草履を履いて屯所の門の方へと歩を進めていく。門をくぐって辺りを一瞥すると、暗がりの中からこちらへ向かってくる人影を視界に捉えた。山南が見たところ人影は一つ。体格からして斎藤に違いなかった。
「山南さんッ!」
山南の姿に気づいたらしい斎藤が、何やら狼狽えた様子で駆け寄ってくる。次第に屯所の灯りに照らされていく斎藤の姿を見て、山南はどうもただごとではないことを察する。一人で戻ってきたと思っていた斎藤の背中には、永倉がおぶさっていた。斎藤にしがみつく力もないのか、腕はだらりと垂れ下がっている。
「永倉くんに何かあったのかい?」
「それが──シンパチが壬生こっちに着いてもなかなか艦(ふね)から出て来なかったんで、心配して様子を見に行ったら、こんな状態で」
斎藤がしどろもどろになって事情を説明する。永倉の色白の肌は熱で上気しており、繰り返す呼吸は浅い。苦しげな永倉の様子に山南も内心は動揺していたが、非常時こそ副長として冷静に対処せねばならない。山南は落ち着いて、為すべきことを考える。
「とりあえず、君は永倉くんを部屋まで運んであげてくれるかい。私はその間に山崎くんを呼んでくるよ」
その指示に斎藤が頷いたのを確認し、山南は山崎の元へと向かった。山崎は心戦組の監察方でありながら、医術の心得もある優秀な部下だ。折よく今夜は偵察任務を命じていなかったので、自室で休んでいた山崎に永倉の診察を任せることが出来た。
永倉の部屋に着くと、部屋の主は寝間着姿で布団の上に寝かされていた。どうやら斎藤が布団を用意し、着替えまでさせてくれたようだった。斎藤もこういうところではよく気が回るものだと、山南は密かに感心する。
山南は斎藤と並んで布団の近くに座し、山崎が触診、聴診……と手際よく永倉の状態を確認していく様子に見入っていた。一通りの診察を終えたらしい山崎は、永倉の寝間着を整え、捲れた布団をそっとかけ直した。
「耳下腺に若干の腫れが見られます。刀傷は受けていないようですし、恐らく風邪による発熱と考えて良いでしょう。肺炎を併発している可能性もなさそうなので安心してもらって大丈夫かと」
淡々と告げる山崎のポーカーフェイスは、少し弛緩しているように見えた。隣でずっと不安そうな面持ちをしていた斎藤も、頭を下げながら大きく安堵の溜息を洩らす。
「どうなっちまうのかと心配したぜ、シンパチ」
斎藤の声に薄っすらと目を開けた永倉がくすりと笑い、弱々しい声で言った。
「ごめんねススムちゃん。迷惑かけちゃって」
「いえ、これくらいお気になさらず。大事(だいじ)に至らなくて何よりです」
「え、ザキだけ? 部屋まで運んで着替えさせたの俺なんだけど」
「ふふ、冗談だよ。ハジメちゃんもありがと」
「……さっさと治せよ」
「永倉さんがいないと、斎藤さんが飼い主ロス起こしてしまいますからね」
「ああ? 誰がペットだコラ」
「幻聴ですよ斎藤さん。念のために診察してあげましょうか?」
「おいザキちょっと表出ろ」
いつもの如く斎藤が容赦なくいじり倒されている。この若者三人が揃うと毎回こうなのだ。賑々しい雰囲気に、山南は肩の力がすっかり抜けていくのを感じた。自然体で飾らない態度の斎藤と山崎に安心しているのか、苦しげだった永倉の顔は心なしか和らいでるようだった。
ひとしきり話し終えると、斎藤がそれじゃ、と切り出した。
「あんまり長居すんのも悪いし、散々イジられちまったし、俺らはそろそろ戻るか。山南さんは、まだ残りますよね?」
永倉との仲を知られているからか、さも当然のことのように斎藤が尋ねてくる。少々驚いたが、実際にそうするつもりでいたので山南は素直に頷いた。
「君達がいてくれて本当に助かった。礼を言うよ」
「いーっすよこれくらい。シンパチのこと、頼みますね」
斎藤がへらりと笑って、障子戸の方へと足を向ける。次いで山崎が口を開いた。
「この件は僕から土方さんに伝えておきます。それから、もし永倉さんが起き上がれそうでしたら、解熱剤を飲ませてあげてください」
山崎は一礼して立ち上がり、斎藤の後に続いて部屋を出て行った。
障子戸が閉められた部屋は、残された二人の呼吸音しか聞こえない静寂に包まれる。閉ざされた空間で永倉と二人きりになるのは久しく、山南は妙な緊張感を覚えながら永倉の枕元に座していた。まず何から言うべきかと掛ける言葉を探していた時、永倉に羽織をくいくいと引っ張られた。
「……薬飲みたいから、身体起こしてもらっていい?」
永倉のやや掠れた声が静寂を破った。山南は頷いて、永倉の首の後ろに腕を回し華奢な肩を掴んで抱き起こす。今の永倉は自力で身体を起こしていることもままならない、まるで糸の切れた人形のようだった。山南は熱を帯びた小柄な身体を支えてやりながら錠剤と水入りのコップを手渡す。永倉が水と錠剤を口に含み、喉をこくりと上下させるのを確かめて再び布団に寝かせた。瞼を閉じた永倉は、細く長い息を吐く。起きて薬を飲むだけでも体力を消耗したようだった。
「ありがと。風邪移しちゃったら悪いし、山南さんも早いとこ戻った方がいいよ」
それが純粋な気遣いかどうかは測りかねるが、永倉はどこか突き放すような言い方をした。体が弱れば心もどうしようもなく弱る。寝込んでいる時に一人でいると心細いし、人恋しくもなる。山南にも遠い昔、そんな経験があった。大人も子供も関係なく、寂しいものは寂しいのだ。こういう時こそいつものように甘えればよいものを、と可笑しくなって、山南は思わず目を細めてしまう。
「おや。私がここまで弱っている部下を放っておくような薄情者に見えるのかい?」
布団の上に投げ出されている永倉の手を取り、そっと握ってやる。ゆっくりと開かれた瞼から覗く瞳は微かに揺れていた。永倉は山南の手に指を絡めて握り返すと、自身の頬に引き寄せた。頬に触れた手指から永倉の熱がじんわりと伝わってくる。久しく感じる永倉の体温はいつになく熱くて、愛おしかった。
「山南さんの手、冷たい」
恍惚とした声音で永倉が呟く。高熱のせいか、今にも雫が零れ落ちそうな潤んだ瞳に見上げられ、山南はぞくりとしたものが背筋を走るのを感じた。不覚にも目の前の永倉の姿が煽情的に見えてしまい、咄嗟に目を逸らす。どう考えても高熱で苦しんでいる者に向けていい視線ではない。不謹慎にも程があると、山南は自身を咎めた。同時に、自分が一瞬でも永倉に劣情を抱いてしまったことに驚きを隠せなかった。
「ねえ」
山南は永倉の声で我に返った。永倉に握り返される手の力が少しだけ強まる。
「もし他の誰かが熱出して寝込んだ時も、こんなふうに側にいてあげるの?」
急な問いに少しばかり戸惑った。頭の中から劣情を振り払うように、他の隊士を思い浮かべてみる。斎藤や山崎の枕元に座り、手まで握ってやる自分の姿など想像しがたいし、正直想像したいものではない。沖田ならまだ許せるような気がしたが、なにより彼を溺愛する近藤が許さないだろう。山南は確信を持って答える。
「多分、ないだろうね」
永倉は、ふぅんと気のない返事をして、視線を天井に移した。瞬きを数回繰り返すと、再び山南を見遣ってふにゃりと笑う。悪戯で、けれど少し弱々しい笑みだった。
「……山南さん、僕のこと好きなんじゃない」
突拍子もない発言に、山南の心臓がどくんと脈を打つ。山南は動揺しかけた。けれど、永倉の言葉は意外にもすとんと胸に落ちて、ああそうか、と納得さえしてしまう自分がいた。山南が目を逸らしてきた事実は、永倉にたった二文字で突きつけられた。
深い静寂に包まれた部屋の中、その事実を素直に受け止めた山南は一言だけ告げる。
「──どうだろうねぇ」
ここは素直にそうかもね、とでも返すべきだったろうか。それはそれで素直とは言い難いが、と山南は自嘲的に笑う。永倉に返すのは、やはり狡い言葉でしかなかった。こんな言い方しか出来なくても、多分永倉には分かっている。最早何日前に見たのか思い出せなくなっていた、永倉の愛おしむような笑みがそう語っているような気がしたのだ。
永倉の寝息が穏やかになるまで、山南は彼の手を離さなかった。部屋を出ると、肌を刺すような寒風が髪と羽織を揺らした。視界の端では、はらはらと雪がちらついている。道理で寒いわけだと白い溜息を吐いて、冷え切った廊下へと足を踏み出す。掌(てのひら)に残る永倉の熱を感じながら、山南は足早に自室へと向かうのだった。
その日は布団に入っても暫く寝付けずにいた。咄嗟に目を逸らしたとはいえ、不謹慎にもあの時の永倉の表情が、声が、いやに頭にこびりついて離れなかった。
山南は腕で顔を覆い、心を落ち着かせるように深く呼吸する。そしてふと、気づく。己の頭を悩ませることはないと思っていた存在に、いつの間にか心までも乱されていることに。
「……我ながらどうしようもないな」
諦めるように独りごちた声は、夜の静寂の中に溶けて消えた。
***
部屋の隅にある文机に向かい、残っていた書類を片付けていた時だった。山南は自室の前でぎしり、と床が軋む音を聞いた。障子戸の向こうにある気配を感じて、山南はほとんど反射的に筆を置き、後ろを振り返る。それは声を聞かずとも分かる、山南がよく知る気配だった。山南は立ち上がると、引き寄せられるように障子戸の方へと歩いていく。自らの動悸が早まるのを感じながら、引手にそっと手をかけ、引き開けた。
「久しぶり」
下げた目線の先で、枕を抱きしめた永倉が微笑む。
「──ああ、本当にね」
胸に込み上げてくる様々な感情を抑え、山南は目を細める。
十二月も中旬を過ぎた、氷雨の降る夜半前のことだった。
今日の永倉はすぐには布団に入らなかった。懐かしむように山南の部屋を見渡して、布団の上にぺたんと腰を下ろす。山南も文机に置いたままの硯箱に蓋をしてから永倉の隣に座した。
「あれから体調は大丈夫かい」
永倉が発熱した翌日から二日間、山南は任務で屯所を空けていた。山南が帰還した時には既に、永倉は職務に復帰していたようなのだが、接触する機会がないままこの時を迎えたのだった。
「おかげさまですっかり元通りだよ。心配してくれてありがと」
永倉はにこやかに微笑むと、そうそう、と思い出したように山南不在の二日間の出来事を話し始めた。
山崎が手厚く看病してくれたこと。斎藤が見舞いと称して鍛錬をサボりにきたこと。あの土方が粥を作って持って来てくれたこと。山南はそれらに耳を傾けながら、無邪気に語る永倉の姿を眺めていた。こうして自室で永倉の姿を目にするのは一体何日ぶりになるのか、もう山南には思い出せなかった。思い出せないくらい、待っていたのだ。
「──山南さん」
山南の方に向き直った永倉が、神妙な表情で山南を見上げる。先程話していた時とは違う雰囲気を山南は感じた。
「いつか団子屋に行った時、僕に訊いたよね。どうして僕が山南さんの布団で寝るのかって」
どことなくきまりの悪い思いをしながら山南が相槌を打つ。あの時自覚していなかったとはいえ、何食わぬ顔で永倉から真意を訊き出そうとした己の狡猾さに引け目を感じていたのだ。
「今なら教えてもいいよ。五年前の僕が、山南さんのとこに来てた理由」
膝に置いていた手に永倉の手が重ねられる。布団の中でいつも向けていた笑みを湛えながら、永倉はあの日の話の続きを紡ぐ。
「山南さんって、意外と表情豊かだよね」
唐突な発言に、山南は目を見張る。今まで生きてきた中で、そのようなことを言われたことは一度たりともなかった。己に不似合いな言葉がくすぐったく思えて、思わず目を細めた。
「私が表情豊かだって? そんなことを言ってきたのは君が初めてだよ」
そう返すと、永倉はすかさず「その顔だよ」と声を上げた。
「その笑った顔が僕だけに向けられればいいのにって、ずっと思ってた。あの頃の僕には、ただ山南さんを独り占めしたいって思いしかなかったんだよ」
ああ、と思う。
あの頃の永倉から向けられていたのは、山南が認めようとしなかった、優越感の裏側にある欲望と同じもの。それが意味する感情の正体を、山南はもう知っている。五年も前から永倉に懸想されていたことを知り、山南は胸が詰まるような気分になった。
「それにしても狡い訊き方するよねぇ。まぁ、そのおかげで山南さんも僕のこと好きなんだろうなーって気づいちゃったんだけど」
永倉は笑って肩をすくめてみせた。「狡い訊き方」と図星を指されてしまい、苦笑するだけで何も言い返せない。
「……ただ側にいられればそれで良かったはずなのに、山南さんも僕と同じなんだって気づいたら、吹っ切れちゃった」
永倉はおもむろに膝立ちになり、山南の方へと手を伸ばした。
「永倉くん……?」
「今はもう、側にいるだけじゃ足りない」
永倉の手は山南の肩を掴んだ。ぐ、と体重をかけて押し倒され、視界がぐらりと揺れた。山南は辛うじて肘で上体を支える。動揺して見上げれば、馬乗りになった永倉に、欲情したようにも見える眼差しを向けられていた。初めて目にする永倉の表情に、山南は息を呑む。
「……僕が来なくなって、寂しかった?」
永倉が確信犯的な笑みを浮かべたのを見て、山南は自分が謀られていたことを察する。問いには答えず、あくまでも平静を装って返した。
「やはりあれは故意だったのかい」
「どうだろうね? 僕は気まぐれだから。どっちにしろ山南さんは、ずっと僕のこと考えてたんでしょ?」
永倉が悪戯っぽく笑んだ。ああ、完全にしてやられた。脱力して頬の筋肉がふっと緩む。
己は永倉の駆け引きにまんまと翻弄されていたのだ。永倉に対する好意と独占欲を認め、想いを募らせるのに十分すぎる時間を与えられた。永倉が部屋に来なくなってから、夜の間は空白感に苛まれ、隣にいない永倉のことばかりを考えていた。永倉が与える温もりと安堵感を、自分の側にいたいと言った永倉自身を、山南は手放したくなかったのだ。
全てを見透かしているような鳶色の瞳は、山南を捕らえたまま離さない。山南も視線を逸らさなかった。硝子越しに永倉を見つめ、山南は答える。
「──ご明察だよ。君のいない夜には随分と退屈させられたものだ」
永倉が少しだけ驚いたように目を見開いた。しかしそれはすぐに細められ、くすりと軽やかな笑みを溢す。
「素直になりきれない山南さんにしては、上出来な答えかな」
「お褒めに預かり光栄だ」
そう言って笑い返す山南の頬を、永倉が両の手でそっと包む。吐息さえ感じる距離まで顔を寄せられて、心臓は煩いくらいに早鐘を打っていた。
「……拒みたければ、突き飛ばすくらいしてくれていいんだよ」
山南の頬を撫ぜながら永倉が言う。
相手は己よりもはるかに小柄な上、逃げ道まで用意してくれている。拒もうと思えば、その身体を突き放すことなど山南にとっては造作もないことだ。
けれど、永倉は分かっている。
山南が永倉を拒む理由を見つけられないことを分かっていて、そのようなことを口にするのだ。
「……狡いな、君も」
山南は観念したように息を吐いて、目を閉じる。ほのかな石鹸の匂いに鼻腔をくすぐられながら、唇に重なった温かく柔らかな感触に、暫しの間酔いしれていた。
本当に狡いのは、はたして己か、永倉か。
そんなことはもう、山南には考えられなかった。